昭和41年06月28日 夜の御理解



 今日、竹葉会がございましてから、地方のかたが出てきておりませんでしたから、6,7名の方達でしたけれども、非常に熱心にありがたい信心の共励が出来ておりましたけれども、中でも本当に神様のご都合というものが、本当に考えて見るとあれもおかげこれもおかげということがわかるのですけれども、実際におかげを頂いてみらんとそん時に分かってないということをそれぞれに体験から発表しておられましたが。
 井上峰子さん、佐田恵美子さん、それから、福岡の秋永先生ところの奥さんがそれぞれの最近の生生しい、そういう例をもう聞かせてもらいよりましてから、あの本当に、神様のご都合という事が、もう目の当たりにそれを感じなければおられんようにやはり皆さんおかげを受けておられるですね。井上峰子さんたちの場合でもあちらのおばあちゃんが若い時に、もうただのようにしてこうておられた。蓮根堀がある。
 あそこに今度は大きな道路が出来るのです。それでそこを、まあ売る事になっておる、あちらのだけが売っていないことに、自分方のだけだもんですから、もうその、まあいうならば、押さえつけるようにして、売らねばならない売れと言ったような事であったのを、御神意を頂いてから、もうまたそういうことでは理不尽な事をいうておることを要求してきとったのですけれども。
 先日からもう売りませんと、値段が高い安いじゃないもう、白紙に返してから売るとか売らんとか、いいよったけど、いくらまでならんとうらんと、いいよったけれども、もういくら高こうだしてもらっても、売りません白紙になれという事で御座いましたから。もうその事を高こうてん、安うしてん売らんということになった。もうそれから、様々な働きがありましてね。
 今日あのお届けがあっておりましたが、もうそれは大変な金額なんですよ。金額もそれでもう白紙にこちらがなっとりますから売らん積りですけれども、あのお届けがありましたが、神様の矢張りご都合でありましたから矢張り、今度はその高ばって売らんというのではない、そういうふうにだれも、あのそこんところを具体的に申しますと話が長くなりますけれども、もう顔出す人だけは顔だしてからそして、どうぞ売ってもらうようにというて、理不尽ではなくて利をつくしてからの、そのご依頼であったと。
 それでも、まだ白紙になってということであったから、1日待って下さいというて、待たせておると、言う様なわけで御座いましたが、まあ結局売られる事になるのですけれども。本当にもう、押さえつけられる様にしてから、売らなければならない筈のずが、向こうから頼まれて、しかも、お金は沢山の値上がりをしてから、売る事になると言う様なことをでしたですね。
 それが話を聞きますとですね、それは、そういうふうにおかげをくださらなければおられないほどのようなことがあちらの主人の上にも由美子さんの上にもあっておるです。ね。皆の気持がほんとにおかげを受けなければならんように、美しいおかげの受け物というものが出来ておる。そういう例やら、佐田さんの、あの主人があの、病院あの、手術をなさった時のことから、自分が手術をするのをおかげを頂いたことから。
 まあ、最近あちらの、おじいちゃんの老人結核ですかね、今度入院をされたのですけれどもそれまでの、もう本当に、どの一こまでもおろそかに、出来ない、ということを、今日話しておられましたが、そのおかげのもう本当に、神様の本当にあれもおかげ、これもおかげという、そのおかげを頂いて来ておるという事をですね、まあ一番最後のところだけを言いますとですね。
 大体佐田さんがこちらへ、日田の方から帰ってくるのも、こちらへ帰ってきたのですけれども、大変、悪条件の中でしたけれども、もうそうしなければならないような事になって、佐田よあの本店のほうで、ある会社を設立されるのに佐田さんところの、おじいちゃんを名ばかりの重役になってもらわなんならんというほかになるてがないというような羽目になってですね、名ばかりの重役になったわけです。
 ところがそれが名ばかりの重役に給料を払わねばならないようになって、もろうてもらわねばこまるという事になって、今度の入院なんかでも重役としての、ですからもう佐田さん方からとしてはもう一銭も経費も要らんなりに入院が出来るといったようなおかげに繋がるということがですたい、もうそれがずっとそのおかげに繋がる、何年間そういう事のためにああいうことであったということを話しておりましたですけどね。
 それを、まあ一番端的にいうならば秋永先生のところの、その、お話しですたい。ああした、事故にあいまして、おかげを頂いてこの、7月1日に友良先生と嘉朗さんが退院のおかげを頂くそうです。もう医者もたまがってちょうど半分、医者が予定しておりました、半分の日数で退院が出来るわけでございますけれども、それについての相手のケガをさせなさったほうの側のですたいね。
 当時はこっちばがりが悪いのじゃないあっちも悪いとかなんとかかんとかいうて、そげな事いうごたるならと言った話しまであよったんですけれども、最近向こうのほうから言うてきておられるのがですね、勿論ああした、費用というのはなんですか、車の保険がございますから、それで支払いが出来れる。ところがですね、向こうの和田さんともうしますかね、向こうの被害者相手の方がですね、それが本当つい最近ですたいね、五百万円の保険にかたっておられたそうですあ。
 先方の方に。それは人物だけではない、物品が交通によって、破損したり、ケガをしたりした時の為のそのです、そのそれががもう最後の、その、千円、大体3百万円でよかと言われておるのをですよね、もう、二百万円買っておきなさいとしゃっちもっち。千円かけておれば5百万になるとだそうです。それもやあやあ言われてからすぐだったそうですね。ですから五百万円の保険にかかっちゃった。
 その別の車の保険だけではなくてです、ですからこちらの要求されるだけして下さいということになったそうですと言う様にです。もうそのことあのことを思うてみるときです、もう神様のご都合というですかね、もう本当に赤面弁慶になってからもうそのどうこうという事はいらんと言った様な事を、感じるわけで御座いますけれども、私達の上においてもそうなんですけれどもね、自分の分が悪いとか何とか間とかと、ね。
 腹が絶つような問題私どもにくださる問題一切がです、一切が神様のご都合の中にいわゆる、ご守護の中にあるのです。本当に神様のおかげでお生かしのおかげを頂けれておる私達。神様のお守りの中にある私達。神様の、お導きを頂いておる私達というものをいつも、心の中に年頭においておけばです、本当にこのことによってです、導かれておるのだなあと、この事によって、生かされておることが分かるのだと、このことによって、守られておるのが分かるというようにです、分からせて頂けれるものです。
 それをそのそれで自分が生かされて生きておるという事を分かろうとせず、自分で生きておるような思い方をして導かれておるという事を思わずに、導かれておる問題を問題難儀として、それでは一つも自分が導かれていない時にです、導かれておる私達ということにならんところに信心が一つも進まないのです。守られておるこんなにまで守られておるという事が分からんところに、いわば不平不足が出てくるわけなんです。
 私今日は3人の方達の話を本当にめいめいの話を、もう、テープにでもとっておって、本人めいめいから聞いたそのままの実感を話したいごたるけれども、それはどこまでいうてもおかげ話。しかもそれがです、本当にああいう、例えばこの、おかげというものがです神様の氏子かわいいという一念でしか、痛い痒いことにいたるまで、お働きがあっていないという事ですね。
 それを私共がそういう結末、おかげとして受け止めていききらんということはですね、本当に神様に対してもあいすまんことである。あれもおかげでありこれもおかげであり一切がそうなんである。おかげでないものは一つもない。ひとことでもそげなことじゃ困るという事はないという事。ね。そこんところを本当に思い込ませて頂いたらありがたいと思いますね。
   どうぞ。